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サニーレタスの普及とその着眼点〜愛知県豊橋市 朝倉昭吉さんは語る〜
 タキイ種苗(株)の園芸新知識2002年6月号に掲載されたものです。
 写真は本に掲載されたものと同じではありません。掲載誌は下の写真をごらんください。
 左は2003年12月に再訪した折、サニーレタスとともに力を入れているウイキョウを手にする朝倉さんです。このときにホームページ掲載の快諾を得ました。


 サニーレタスの学名は「ブライツヘッド」。葉チシャの一種ですが、葉先が赤いのが特徴で、リーフレタスなどともよばれています。いまでは食卓でごく一般的になったものの、サニーレタスに着目し、普及させた朝倉昭吉さんにとって、サニーレタスは自分の生きてきた足跡を物語る野菜になりました。野菜の新品種は試験場や種苗会社が関わるケースが多いなかで、一農業者により広まったことも稀有なことでした。

 また、朝倉さんの呼びかけでサニーレタスの栽培を始めた豊橋南部農協(現在JAとよはし)は1971年に東京へ初出荷しました。以後、全国に産地が広がるなかで、どこよりも早く手がけることで先行メリットを生かすことができ、地域農業への貢献も果たすことができたのです。

 従来の農業者には欠けていた「先見性」と「マーケティング力」をいかに発揮していったか。その歩みは、他に真似でない自分だけの農業を目指す人への指針になるでしょう。

 
 ●なぜ着目したか
 
 「新しい品目を定着させるのは至難の技ではない。だが、絶対に失敗は許されない。どうやって栽培し、どうやって販路にのせるかといってもわからない。だから、試行錯誤なんてものではなかったね。けれども、一番大事なのは、農業は一人ではどうにもならないってこと。これは農業の現実でもあるね。

 ゼロから出発する場合、まとまった集団で取り組まないと成功しない。集団を生かすためには、私自身が私利私欲を離れることが第一だった。一攫千金を夢見るようでは誰もついてきませんから」

 ――朝倉さんは、最初にサニーレタスの成功の一因をそう言い切りました。サニーレタスという名称の商標登録、続いて開発したサニーレタス用包装道具の実用新案登録、と「金の成る木」があったものの、サニーレタスそのものの幅広い普及を願って自分の権利にはしませんでした。これが普及の第一歩になったと自己分析しています。

 
「私は農業の生まれではありません。私の代から農業を始めました。戦後の食料難のとき、2aの水田で1俵とれた米はダイヤのように大切に思えた。無から有になる喜びがあった。だから、農業をしているという証として、無から有を生む足跡を残したかった。新しい野菜に対する取り組みで、スタートから違っているとすれば、先祖代々の農業者と違って農業を新たな視点から見ることができたことかもしれないね」

 ――いまは新しい野菜だが、将来必要になるだろうと先を読むなかで出てきたのがサニーレタスでした。
 「サニーはヒット商品ではない。なぜなら、確実に当たるという読みがあったからだ」
 では、その読みとは何だったのでしょう。

 「昭和40年代に入ると学校給食はパン食でした。一日一食はパンを食べている子供たちが親になれば、自分の子供にもパンを食べさせるだろうということは容易に想像できる。そうなると、パン食に合う野菜はキャベツやハクサイではないはず。当時、全国的に玉レタスの栽培が伸びていましたが、自分たちの産地は追いかける立場なので、一番手にはなれないとわかっていました。

 次に、食生活の洋風化に伴って、彩りのある野菜が伸びてくるだろうと確信しました。彩りとなる野菜はみんな赤い。洋風料理に合うレタスにはなぜ赤いレタスがないのか。赤いレタスならば絶対に受け入れられるだろうと思いました。

 三つ目は、外食産業の伸びです。それとともにレタスの需要は増えるだろうと読みました」

 ――その時分、冬はキャベツ、夏はニンジン、ジャガイモ、メロンなどの果菜類を作っていて、洋菜類はまるで作っていなかった朝倉さんですが、食生活の変化、料理の洋風化、外食産業の伸び、この三要素に合う野菜を作ればよいというのは確信に変わっていました。中でも、業務用に向く野菜については、最も期待するところでした。

 レタスを片っ端から試作しましたが、当初レタスにリーフ系があることを知らなかったので、「あれ、玉にならん、こりゃ、だめだ」と思ったそうです。ところが、レストランの厨房で、レタスを一枚一枚はがすのに手間どっているのを見て、リーフ系レタスならば業務用にも優れていると知りました。

 (1)今後伸びが期待できるレタスの一種である、(2)料理の彩りに向く赤いレタス、(3)一枚ずつはがしやすい、その三要素があるから売れるはず。そして、このレタスを当初「レッドレタス」と命名しました。


 ●いかに売るか−PR

 ――これから先の生産体制、売り込みに奔走する朝倉さんの姿勢もユニークです。

 栽培についても、白マルチ栽培で大失敗し、黒マルチに変えて、年内から4月にかけて3期に分けて作る栽培法を確立しました。一見すると順調なサニーレタスの歩みも、陰では様々な苦労があったそうです。


 苦労といえば、「どう売るか」についても一工夫しました。

 「試作品の段ボール箱に2つ唐草模様の風呂敷で背負って東京に出たんだけど、今思うと滑稽だったね。日本一の青果会社だから、当然知っているだろうと思って、東京青果に行って見せたら、レタスは結球してるものだ、こんなもの売れるかと言われた。そこで、開き直って、欧米では60%は非結球レタスだ、大使館へきいたらどうだと荷物を置いて帰ってきた。すると、本当に大使館に聞いてくれてね。大使館の人は、このレタスは日本にないので大使館内の家庭菜園で作っている、昭和天皇が本国訪問の折の晩餐会メニューにもこのレタスが出たと言ったらしい。それで、卸売会社でもこれはエライことになった。ひょっとしたら今後伸びる野菜かもしれないということですぐに電話がかかってきた」

 ――野菜を取り扱う市場がゴーサインを出し、第一関門を突破しました。しかし、朝倉さんは慎重でした。生産と供給のバランスを崩したらだめになると考え、初年度は生産者11人で1ha未満しか作らなかったのです。

 翌年は、農協内の洋菜部会に、前途有望な野菜としてもちこみ、生産量を増やしました。生産品目が同じという部会づくりも全国に先がけて提唱しましたが、これも「歩みがみんな一緒だと、結束も強く、技術の交流も可能」と考えたからです。洋菜部会は、現在約400人、1980年代前半にはサニーレタスの栽培面積が60haとピークを記録しました。

 2年目に入って生産体制も販売先もめどがつき、後は「いかに売るか」のPRが問題になります。
 

 「ここで、テレビの料理番組があることに思い当たり、有名だった江上トミさん(故人)に電話をしました。すると先生は、赤いレタスでしょ、よくぞ作ってくれました。これは日本に残るし、料理の革命になる。でもレッドレタスでは語呂がよくない。もっとスカッとした名前に変えなさいよってアドバイスしてくれました」

 ――江上トミさんの鶴の一声で、それまでに6000枚ほど作ったレッドレタスのチラシはお蔵入り。そこで、太陽の恵みを全葉に受けて赤色がきれいに出るレタスのイメージで、「サニーレタス」という親しみやすい名前に変更したのです。

 

 科学技術長官賞など数々の賞に輝く
「でも、名前はみんなに決めてもらったんですよ。3つぐらい候補をあげ、当時、京浜の中央市場25社全部に集まってもらって選んでもらいました。それでサニーレタスという名はみんなで決めたのだから、みなさんも積極的に売り込んでいく責務があると言ったんです(笑)。それで、市場の人たちもやる気を起こしてくれたのかもしれません」

 ――次に、最も発行部数の多い料理雑誌の出版社へ行って、熱弁を奮い、無料でサニーレタスの紹介をしてもらうことにも成功しました。

 生産者にはたとえ1円でも経費をかけさせたくない、だが、どうしても我が国に残さなければいけない野菜だという思い一筋に動いたのだそうです。

 江上トミさんもサニーレタスを料理番組で用いてくれて反響を呼び、普及に貢献してくれました。

 

 ●どうしたら売れるか−マーケティング

 ――いかにして売るかについては、江上トミさんと雑誌の協力で成功しました。次には、どうしたら売れるかです。ここで、朝倉さんは自分たちの関係先がすべてよくなるような「販売五箇条」を考案しました。

 (1)市場に対しては、販売意欲を高めるために、1市場1会社制にする。そして、1年目は3社、2年目に5社、3年目に10社、4年目に全市場へ供給することにしました。

 「市場を絞り込んだのは、その3年間に生産のバランスをとればよいと考えたから。4年たって必要量がなければ市場は他産地へ指導して作らせればいいからね」

 (2)仲卸や青果店に対しては、1ケースLサイズ15個入りという定数制を採用。やむをえず小さいサイズのときだけ例外としてM18個入りとして出荷しました。1箱の数が決まっていれば小売業者も値付けの計算が楽です。この発想はサニーレタスで初めてという画期的なもので、小売業者の多くの共感が得られました。

 (3)消費者に対しては、上限価格の設置により、恩恵が得られるようにしました。最低限の利潤が得られる価格を1ケース800円と設定し、3年間、京浜市場で1ケース800円以上で販売したら出荷を停止するということにしたのです。上限価格というのは前代未聞です。しかし、サニーレタスが3年間はいつも同じ値段であれば消費者は買いやすいし、名前も覚えてもらえるだろうという算段がありました。

 (4)3年後、自由価格になってからは、生産者に対してプール計算方式を採り入れました。新しい品目は計画出荷をしないと伸びていきません。このため、いつ出荷しても支払金額は同じということで安定出荷を図ったのです。このため、生産者はみなとても協力してくれました。

 (5)全量共販出荷にして、他への販売はしないことを徹底させました。


 「後年、市場の人たちから、定数制と上限価格の設定がなかったら、サニーレタスは定着しなかったねと言われました。
 私たち農業生産者にとっては、ふれあいと互助の心が残されました。自分だけよければいいという農家が多くなったなかで、助け合いは農業者の原点だと思いますよ」

 

 サニーレタスの包装道具箱の上に出た筒状のところはストッキング素材の布がかぶせて滑りがよくしてある。ここに包装紙を裏返しにのせて、葉の部分が広がったサニーレタスの上の部分を合わせて滑らすと葉の部分だけの包装が簡単にできる。いまや日本中で使われている便利な道具である。使い方を身振り手振りで説明してくれた朝倉さん

 ――サニーレタスの包装道具も、いわば朝倉さんの互助精神から生まれたもの。考案した道具はコロンブスの卵のようなもので実演してもらうとなるほどと感心するばかり。寝てもさめても何かいい方法はないかと考えているうちにヒントが浮かびました。かくて、「非結球レタスの栽培法と包装道具の考案」により、科学技術長官賞を受賞したのです。 

 
 サニーレタスの次に力を入れているのは、しらかばメロンとフェンネル(ウイキョウ)です。しらかばメロンは白地に緑色の筋が入る個性と味のよさが受け、一流果物専門店で販売されています。また、ウイキョウも東京のホテルで西洋料理になくてはならない食材になりました。サニーレタス、しらかばメロン、フェンネルと普及させてきて、朝倉さんがもうひとつ確信したことがあります。

 「新しいものはすぐにとびつくのは危険。でも、新しいものにはルールがある。(1)ホテル、(2)デパート、(3)大型量販店、(4)スーパーや青果店と広めていくことだね。この順番で行くと、徐々に裾野が広がる」

 ――新商品の生産販売における朝倉哲学は、まだまだ深まりそうです。

 

  
  
  【「園芸新知識」についての感想】
 この取材は2001年夏に行ったので、サニーレタスの写真撮影はできませんでした(ここの掲載したのは2003年12月に朝倉さんの家を再訪する機会があって撮影したものも加えました)。
 
 「レタスの時期にまた撮影してもいいですから」とタキイ種苗(株)担当の小野さんが言っていたので、どんな体裁になるのかと楽しみにしていましたが、昔の写真やらレタスの写真やらが入って素敵なページに仕上がっていました。実際に活字になったのは2002年6月号ですが、それまでじっくりと用意してくれていたのだなと改めてタキイさんの姿勢に感心しました。私なんて、自分の仕事は、締切ギリギリで、しかも相手に原稿を送って校正してもらうときには「今日中(もしくは明日午前中)に見てくださ〜い」というときがザラです。この原稿は話し手の言いたいこと、伝えたいことを盛り込めたという満足感があり、とても気に入っています。ということは、朝倉昭吉さんが素晴らしい人で、上手な語り手だったということです。

 朝倉さんは2002年秋の黄綬褒章を受け、受章パーティでこの「園芸新知識」を配ったと聞き、うれしくなりました。しらかばメロンのこと、ウイキョウのこと、農業の将来のこと、朝倉さんの言葉をもっともっと書き記していきたいのですが、折りを見てアップしていこうと思います。(2004.5)

 朝倉昭吉さん 〒441-3133 愛知県豊橋市大岩町字西荒田48-7